ミニマリスト

エシカル ミニマリストになろう

エコとミニマリズムが好き。山の暮らしにもトライ中。

仕事を減らそう。資本主義とSDGsの矛盾

最近、何かと世知辛さを感じることが多く、仕事で人と会うたびに

「忙しくて生活に気を配る余裕がなかった」

「休みが取れなくて病院にも中々行けなかった」

などという話をよく聞きます。

残業の上限制限なんてむしろ弊害ばかり、仕事の内容が減らないのにどう早く帰れというのか、サービス残業ばかりが増えていくと言います。

 

共産主義の国のニュースで独裁者の下僕のように暮らす人民の様子を見るにつけ、こんな国に産まれなくてよかったと思うことがありますが、

資本主義のこちらはこちらで、企業の歯車の一つになって下僕のように働かされる人も多いように思えて気になります。過労死などはその最たるもので、暗澹たる気持ちにさせられます。

我が家はNHKが夕食の友で、ネタどり、とかクローズアップ現代、などをよく見るのですが、

この間も宅配便の増加に伴い寝る間も削って仕事するトラック運転手の方の話が出ていました。

以前から思っていましたが、宅配というとてもコストのかかる仕事をなんで無料にしようという企業があるのでしょうか。つい最近まで私には宅配は贅沢な手段という認識でしたが、安価であればそれだけたくさんの人が利用しようとしますよね。

また、SDGsが目的のはずがさらに無駄な仕事が増える最近の傾向も残念です。

ある飲食企業で、プラゴミ削減のためにステンレスカップを導入したら、運搬や洗浄のコストが増え、1個のカップにつき100杯以上飲まなければ採算もエネルギー削減も見込めないことがわかったそうです。

日頃若い人がずいぶん頻繁に路上でお茶するのを不思議に思っていますが、そういう個人的な感想はさておき。それだけ贅沢なことをしているという認識で、プラスチックカップには相応の負担額を上乗せすべきだし、マイカップ持参が大前提、みたいな世の中になるといいのにと思います。

消費者側の問題だけではなく、提供側も仕事すればするほど、何かすればするほど、あらゆる地球のエネルギーが使われていくことに気づかなくてはと思います。

簡単、便利、迅速なサービスを皆あまりに求めすぎる、しかも安価で求めすぎると思います。はっきり言って忙しいからそういうものを求めているだけであって、時間に余裕があれば必ずしも必要ないことだと思うのです。どこかでこの過剰なサイクルを断ち切らなければと思うし、そのためにはここまで皆がむしゃらに仕事して忙しい世の中を作り出してはいけないのです。

がむしゃらに仕事せざるを得ないような、労働に対する対価が低いことも問題だと思います。何もかも金銭主義になっていることもおかしいのでしょう。例えば自給できる場所や技術とか、親戚、仲間同士の助け合いとか、そういう価値が希薄になっているのも問題ではないでしょうか。

また、消費者側は仕事する人に対して完璧を求めすぎるような気がします。もちろんそういう仕事もありますが、それなら相応の人員や対価を払うべきです。誰にでもミスや不平等や粗雑さはつきもので、それをいちいちクレームであげつらう社会は未熟だと思います。

企業のトップや経済の専門家がどういう舵取りを今後検討してるのか私は知りません。ただ我々庶民としてはもうこの資本主義の渦に飲み込まれず、いち抜ーけた!と放棄して良いことが色々とあると思います。この現代において、周りを顧みずただ頑張りすぎることは決して美徳ではありません。頑張りすぎることで周りを巻き込んで周りも辛くしているかもしれません。まず自分の、家族の、そして周囲の人の時間を確保することが本当に大事で、それが周り回って社会を救うことにもなると思います。

 

だんだん熱が入ってしまいましたが、翻ってこういう概念を自分の仕事に落とし込むのが本当は一番難しいです。でも小さな一歩でも始めなければいけません。私は私の分野で、ある種の過剰さに警笛を鳴らしていきたいと思っています。

同志が欲しいと痛切に思います。

今の私の「持たない生活」

絵のレンタルサービスについて全回お話ししましたが、以前は洋服のレンタルも利用していました。

これもサブスクリプションで、月ごとに計4着のトップスとボトムスを選んで注文できるサービスです。

1ヶ月1万円弱でやや高かったのかもしれませんが、自分で選ぶよりずっと洒落ているし、程よく流行も取り入れており、何よりレンタルだからと少し冒険したスタイルにも挑戦できて良かったです。

私の申し込んだパックでは、6ヶ月続けると4着プレゼントしてもらえたり、レンタルの買い取りもできたりと色々便利でした。

意外に冒険した服の方が気に入ったりして、プレゼント以外にも数着買いとりしましたよ。

難を言えば、扱いやすい化繊の生地が多いので、地球に還る素材ではないですね。

でも、気に入らなくてタンスの肥やしになったりすぐ処分してしまうよりもサスティナブルかな。

 

この数年、SDGsやらミニマリズムにこだわりすぎて、色々なことで行動にブレーキがかかってしまうところがあり、ちょっと苦しくなってしまったんですね。服のレンタルはそれを打破したくて始めたものでした。夏まで続けてましたが、ミニマリズムは保ちつつ楽しめるのがとても良かったです。

真にサスティナブルかは、会社の裏側まで見ないとわかりませんから、そういう観点でお勧めするわけではないですけれど。

 

ところで、娘の同級生に裕福なご家庭があるようで、先日その家に遊びに行ってから、何かと

「〇〇ちゃんの家には部屋が〇つもあった〜」

「猫ちゃん用の部屋まであった」

「車も中まですごく広くてかっこよかった」

と羨ましそうな我が娘です。

 

価値観は人それぞれで、私もへえー、すごーい、とは思います。ですが、こういう所有することに価値を見出す考えは少しクラシカルなのではないかしら、と私は思いました。今の世の中何が起こるか分からない。もしかしたら次の瞬間に何もかも破壊されてしまうかもしれない。私はむしろ何も持たずにどこにでも行けるような軽やかな存在でいたいです。

そんなことを娘には話しましたが、あまり分かっていないような、怪訝な顔つきでした。

批判的なことを言えば、裕福だからと言って地球の資源を何の疑問も持たず湯水の如く使うのはおかしいのでは?と思っています。

地球のエネルギーの大半は先進国の我々の生活に使われているのですからね。

 

ですがこの先何があるか分からないという意味では、お金の使い道としてセカンドハウスを持つのは悪い選択肢ではないなとも思い始めています。 何に価値観を置いてどんなお金の使い方をしていくか、というのは私の今の大きな課題になっています。

アートを飾るという贅沢

美術館めぐりが大好きです。

幼い頃は父母に連れられて、なんとなく。

学生時代は、その名残りで暇つぶしの手段になってました。

最近は、一人で豊かな時を過ごしたい時の瞑想のため、といった趣きです。

ジャンルは問いません。どちらかと言うと近代以前の西洋絵画はスルーしがちですが、古代美術、日本美術、現代美術が好きです。知識はありませんしまぁなんでもござれです。

美術鑑賞の仕方に、今見ている絵のどれを持って帰りたいか?どれを家に飾りたいか?と考えると楽しいと聞いたことがあります。そのせいでしょうかね、西洋絵画の重々しいのが苦手なのは、、。こういう視点で見ると、華やかな色合いの不思議な構図でできた現代絵画に惹かれます。

 

最近、実はこの夢が叶ったのです。

絵画のサブスクリプションの会社をひょんな事から見つけまして。月3000円ちょっとというお手軽な価格をだすだけで、数千点もの中から1枚絵画を選び、それをいつまでも借りて家に飾っておけるのです。これまた2000円弱で、また別のに交換するのも自由、というとっても素敵なサービス。これだ!と思ってすぐに申し込みました。

 

絵画を所有することに多少憧れはあったのですが、画廊にいきなり行く勇気はなく、値段の相場もよく分からない。飾ってみて失敗だった、、と思うのも悲しい。なので最初の一歩はまったく踏み出せなかったのですが、この会社はまさにそういうニッチな要求に応えてくれるのですよねー。

 

また一方、私はいまもミニマリストにこだわっているところがあるので、どんな物でも所有することにはかなりの抵抗を感じることがあるのです。そういう意味でもニッチな要求に応えてくれます。

 

実は、、、この会社のカスタマーアンケートに答えたら何か琴線に触れたらしく、zoomインタビューを受けることに!

そしてなんと私のことが先日インタビュー記事に載ったんでございますよ。

 

インタビューでは私がいかにこのサービスを愛しているかを語りつくしました(笑)

インタビュアーの方もライターの方も私よりずうーっと若くて、しっかりしていて、キラキラしたお仕事ぶりで、そんな彼女らとお話しできただけで楽しかったです。

 

コロナ後の時代は、「風の時代」と言われるようですね。こんなふうに多くのお金はかけず、軽やかに物が人々の間を通り抜けて幸せを運んでいくイメージが、まさにそういう風の時代に合っているように思います。

 

 

おや、わたしも?

子供の発達障害に悩んで医療機関に相談しているうちに、自分の障害に気づく例が多くあるようです。

障害って、あまり好きな言葉ではありませんが。発達特質、というような言葉の方が状況を良く表していると思います。

うちの場合は、息子の忘れっぽさや自己管理の下手さに親の私が悩んでる訳ですが、

私の方がよほどでしょう、、、と感じる事件が最近ありました。いやー、久しぶりにやらかしました。

娘から祝日の次の平日も学校が休みの日があると以前から聞いていたので、私もその日は休みを取ってスタンバイしていたんです。

ふと、友達親娘を旅行に誘おうかなあと声をかけたら二つ返事でOKいただきました。

そこからが大変。宿は何とかとれたものの、JRのえきねっとでの予約の仕方がどうしてもわからない。

誘った身としては恥ずかしながら、切符の手配は相手のお母さまにお願いすることに。とても良い人で、さらっと予約してくださいました。

さあ次はUSJエクスプレスパスの予約。と思いながら数日たったら、もう売り切れになってしまいがっくり。

そうこうしてたら、ふと娘が

ねえ旅行ってその日なの?学校休みなのその次の日なんだけど、、と言い出すではありませんか!!

 

あわあわしながら相手に連絡したら、向こうは分かっていて学校休ませるつもりでいたようでした。

な、なんかお騒がせしました、、。当然こちらもそのようにして、旅行は決行いたします!

 

昔っからこんな有様で、サザエさんみたいな人生です。最近は気をつけてるつもりなんですが。

突然思い立っては走り出してしまうことが多くて、周りには迷惑かけてるんだろうと思います。

一方、若い頃はこういう自分を知られるのが苦痛で人と交わらないようにしていたことが多かったです。今もその傾向はあり、だから息子の消極性も分からないでは無いです。

ただこの歳になると、こういう人間なんです、ごめんなさいと開き直って、笑って助けてもらうしかないかなあ、、とも思っています。

こんなんで良く仕事できてるなと思うのですが、割と自分で決断して人にやってもらうことが多い職種であり、ダブルチェックが必須の業界でもあるので沢山の人たちに助けていただいています。そういう職種だと理解してなった訳では無いのですが、勘のようなものが働いたのでしょうか。

あとは自分の努力も必要で、ミスを補うくらいの決断の的確さとか、仕事相手の言い分を良く聞いて対応することとか、いつも謙虚でいることとか、そういうのでカバーしようと思っています。職場では楽しく働けているので、一応みんなには受け入れてもらってるんだろうと思います、、。

 

相手のお母さんはとても良い方で、私の一連のポカは殆ど何も気にしておらずさらっと流してくださいました。こういう人になりたいなと思います。

 

息子の悩み

色々難しい年頃です。

興味があることにはものすごい集中力で探求する我が息子ですが、昔からそれが長続きしないとか、締切り、ルールが守れないとか、やりたくないことは絶対にやれないとか、ずっと気になっている点もありました。

小さい頃は微笑ましく見れていても、だんだんそれが笑い話ですまなくなってきたのが今日この頃。なにぶん高校生ですからね、、。数年後には成年ですからね。

 

その苦しみを現実のこととして、前に進むべく努力できる人なら何も心配いらないのですが、最近の彼はどうも苦しみに蓋をしてぼんやり過ごしているように見えて仕方ありません。

私も色々本を読んでみたり、通院させてみたり、機嫌の良さそうな時に会話を試みたりしていますが、基本的に

「嫌いな勉強はしない」

「生活スキルを上げる努力はしない」

事が常態化していて、見ていて歯痒いです。

とはいえ私の人生では無いし、私が矯正して治すものでも無いし、悩ましいです。

 

最近の私は

「悩みというものは解決するべきタスク」

というドライな考えの持ち主なので、一体だれに似たんだろうかと考えてしまいます。

 

でも、思い返してみれば、私もそうだったんです。

大学時代、勉強をする気も学校に行く気も全然起こらなくて、夜飲み会に行っては酔い潰れて朝起きれず、昼間は図書館でずっと読書してるか、美術館でぼんやりしているか。優しい友達が毎日代返してくれなかったら、確実に留年でした。 

まあさすがに専門課程に入ったらそれどころではなくなりましたが。

つまり今の息子は、昔の私そのものなんです。そう考えるとすごく不思議な気分です。

なんで私が昔そんなに怠惰な生活をしていたのか、今となってはよく思い出せません。多分一人暮らしで親の過干渉が急になくなって、極端なモラトリアムに走ってたんだろうとか、そんなところです。

その頃の私には、まあいつか何とかするさ、というおかしな自己肯定感がありました。多分それだけで突っ走ってきたような人生です。彼もいつかなんとかすると思ってるのかもしれません。私がそういう肯定感を潰さないでいるのが、一番大事なのかもしれません。

 

息子は割と単純というか、おだてに乗りやすいタイプなので

「理系に絞れば結構いけるじゃない?」

「大人になった時、あの頃なんだったのかなぁ?立派な大人になったねえ、て言ってもらえるようにしようね」

と私なりのポジティブワードをかけ続けています、、、。気持ちが乗らなければ、そりゃあやる気になりませんしね。

持つべきは、友

私、子どもの頃からあまり友人が多い方ではありませんでした。

なんとなく、一人何を考えてるか分からないような、陰気な子だったと思います。

記憶の限りそれは大学生活まで続くのですが、一方で友達との楽しい思い出もあり、今親しい関係を続けてる人が幾人かあるのが不思議なことです。

 

大人になると、一緒にいて心から楽しく豊かな時間を過ごせる友達ができるようになりました。やはり数はとても少ないですし、疎遠になってしまった人もありますけれど。

 

最近の友は、私と同じように自由を愛し、美術や音楽を愛し、思慮深くありたいと願う人たちばかりになりました。

先日その一人とお茶しました。彼女も同業者の女性なので、共感できることが多いです。家庭も仕事もきちんと考えながら、前に進んでいく姿が眩しいです。私も頑張ろうという気にさせてもらえます。

有意義なお金の使い方をしていることを見て、私も考えてみようとか。英語を頑張っていると聞いて、お互い刺激しあってモチベーションを上げてみようとか。ピアノを再開していると聞いて、私は以前からやりたかったボタニカルアートを始めてみたとか。そういう具体的なインスピレーションを貰えることも楽しいです。

 

子供の頃の私に言ってあげたいですね。友達なんて多くなくて良いんだよ。自分を押し隠す必要なんて無いんだよ。沢山の知り合いなんて必要ないんだよ、と。

エシカルダイエット

季節によって3kgほど体重が変動してしまう私。あまりに増えると○kgの大台に乗ってしまうので、それを目前に慌てて元に戻すという繰り返しです。

太る時はだいたい、生活がぼやーっとして能動的に動けていない時です。

体重を増やすと、高血圧、高脂血症のリスクが上がり、動脈硬化を起こして心筋梗塞脳梗塞のリスクになる、、と考えると怖くて、気持ちが前向きな時は律することができます。こういう知識が無かったら、お菓子好きの私、今頃ブクブクに体重を増やしていたに違いありません。

とはいえ、人によってはこういう恐怖心がストレスになり、逆に避けるべき方向へ自ら進んでしまう人もいるようですね。

なのであまり恐怖心を煽るような言い方は避けて、ダイエットが楽しくなるようなモチベーションを高めるとか、実行できたことを認めるとか、そういうポジティブな思考と結びつけるのが良いようです。

 

私の場合、エシカルな買い物の仕方にこだわるようになったら、ダイエットのモチベーションをまた少しあげる事ができたように思います。

だいたいハイカロリーで砂糖と脂肪の多いお菓子って、安いものは材料に不安あり、高ければ過剰包装にうんざり、なので。あーこれ買うとまたパーム油の消費が増えて熱帯雨林が減るわ、、とか、これ買うとまたプラゴミが増えて地球汚染するわ、、とか考えてしまいます。人に言ったらかなりめんどくさい奴だと思われそうです(笑)

実際家族に言うとすごく嫌われるので、何も言わずに買わないで過ごすのが正解ですかね、、。

自分のことだけでなく、ほかの人に役立つことと結びつけると、モチベーションアップに繋がるように思います。私の場合は環境保護に関連づけてるわけですが、健康であることが家族のためになるとか、お菓子の代わりに浮いたお金を寄付するとか、色々やり方はありそうです。

 

 

山の家のダイニングテーブル

この夏の思い出といえば。

ようやく一年越しの作業でダイニングテーブルを作ったこともその一つです。

めんどくさがりで、ゴミが出るのが嫌いで、工具なんか何一つ無くて、体力使うのが嫌いな私、DIYだけはごめんだと思ってきたのにね、、。
でも、考えると何か細々としたものを作るのは決して嫌いじゃない。家具作りは必然だったのかも。
何しろ山荘のために欲しい家具への希望が多いこと多いこと。大きいテーブルが欲しいのだけど、持ち運びできるよう分解できると良い。もしかしたら家ごと処分してしまう可能性もあるので(というくらい古い家なので)、お金はかけたく無い。環境保護を考えたら木製が良い。そりゃあ国産の木だったらなお良い。
でも国産の木で希望のものなんてまずありませんし、あったとしても高級家具の部類になってしまうでしょう。
 
色々調べてましたら、最近国産の杉板でDIYする方が増えてるんだとか。何しろ軽い。柔らかいので加工しやすい。傷がつきやすく頑丈ではないので、本来家具作りには敬遠されてきたものらしいですが、素人が扱うには逆に手軽で良いらしいのです。
最初に「カフェ板」という名で売られている杉の無垢一枚板が目に留まりました。幅は20cm、長さ2mで5千円程度ですよ!
「カフェ板 DIY」で検索するとすぐにヒットします。
 
ただ、幅が20cmですから、テーブル用に数枚つなげる必要があります。それはちょっと難しそう、、なにしろDIYの心得なんて何一つないんですから。
 
ところが、そのカフェ板を見に行った店に、同じく杉の板を継いだ2m×90cmというでっかい板を発見!!何度か思慮のあげく、購入に至りました。
カットは店に依頼。
脚は鉄製の、ネジで取り付けられるものを購入。(土に還るかと言われると疑問だけど、、プラスチックよりは良いかと、、)
サンダー(やすり)だけ店に借りて板の凹凸を無くし、ワトコオイルを塗ります。
ここまでは一年前の夏にできました。
 
今年の夏はいよいよそれを持って行って山荘で組み立てました〜!!
一年越しの作業でしたが、予想以上に立派なのができて、喜びもひとしおでした。作業中は文句?ばっかり言ってた父母、子供たちへの面目躍如でした。手伝ってくれた子供たちよありがとう!夫は赴任先から戻ってこれず、非力な我々で成し遂げましたよ!
 
山荘はまだ父が牛耳っており、譲り受けて私が好き勝手して良い雰囲気ではないのですよね。だから今のところはこんなふうに時々介入して楽しませてもらうつもりです。
 
 
家具なら国産の木で。これはエシカルコンシェルジュ講座で教わったことです。
ご存知の方も多いと思いますが、木を伐採して使いつつ、育てていくことが森を守ることになるのですよね。人が入らない森は日が入らないので、健全な森が育たないのだそうです。
森に携わる人が少なくなればそれだけ森が痩せてしまうことにつながるので、ちゃんと林業にお金が入るようにしなくてはならないのです。
 
知ってる割に安い杉の板しか買わないなんて、すみませんという感じもしますが、、。ポリプロピレンではなく、海外製の合板では無いことは一応選ぶ基準にいたしました(汗)
 

あらためて、エシカルミニマル

なんとなく、記事を書く情熱が薄らいで来ていました。

いっそ忘備録でいいのよね、と非公開にしたりして。

今日久しぶりに過去の文章を読んでいら、私、意外に充実した日々を送ってきたのですね(笑)

 

今後も、ああ私いつも色んなこと考えて頑張ってきたんだなあと言えるように、また文章を紡いで行こうかなと思います。

 

さて、今絶対に成し遂げたいと思っている目標があります。

 

一つは、アメリカ人の女の子のホームステイ受け入れ、です!

もう受け入れること自体は決まってるのですが、彼女に楽しんでもらえるよう、そして私たちも楽しめるように色々考えて準備したいです。

二つ目は、海外学会にまた行きたいです!

皆にコンセンサスを得つつ行ける方法として学会はベストな選択なのです。元々放浪癖があるほうだと思いますが、何の理由もなく海外にふらっと行くほど自由な生活をしてないので、、うるる。

そんな訳で、英語の勉強と研究作業が必須です。さあどうしたものか。

2年前の自分をブログを見てましたら、5時起きで頑張ってます。しかーし、この時は子供の弁当がいらなかったのね、、!しかも私全然勉強してない、、!

子供の弁当作りというハードルが上がった今、どうやって隙間時間を確保すべきか。それはもう、人の力を借りるしか無いですねえ。

一番は子供自身にやってもらうことなのですが、どうも人生甘くみてる子供たちで困ります。最近大きくなって更に言うこと聞かなくなってきたし(汗)

私お得意の、いきなり家事をサボりはじめて家族を困らせる、という強行手段に出るしか無いかなと思い始めてます。

 

再開のブログとしてはなんだか取りとめのない文章ですが、秘めているものは色々ありますから徐々に記事にして行きたいです。

少数の人にじっくり読んでもらえるようなブログを目指します。

どんな時に幸せを感じますか

娘が学校の道徳で、「幸せな人生を送るために」という授業を受けてきたそうだ。

最初に、学年の先生方がどんな半生を送ってきたか?どうやって自分を幸せな方向に持ってきたか?というような内容のお話をしてくださったとのこと。
如才なく人生を謳歌しているように見える先生が、実は子供の頃は貧しく、恥ずかしがり屋で表に立つ事も苦手だった、というような話もあり、子供の話から推測するだけでも中々興味深い授業だったと思われる。
さて、娘のメモを見ると、
「あなたが幸せだなと感じる瞬間をあげましょう」とあって、気持ちの幼い娘なりに面白いことがたくさん書かれてあり、つい何度も読んでしまう。
「親に高いものを買ってもらった時」
→あ、ごめん、、。いつも母ちゃんケチ臭いものね。
「旅行に行った時」
「レストランなどでご飯を食べた時」
「犬に舐められた時」
→犬飼いたいっていつも言ってるよね。母ちゃん忙しがってて、飼えなくてごめん、、。習い事の先生の犬、可愛がってるものね。
「勉強している時」
→なんと!子供の鑑ですかい君は!
「家でゆっくりしている時」
「ふかふかの布団で寝た時」
→そうだねえ。母ちゃんも君の隣で寝てる時が一番幸せです。
 
息子にも「幸せだなあって感じる瞬間はいつ?」と聞いてみた。
「あー、それはさー、夢中になってることに追い立てられてる時間だね!去年のweb文化祭で締め切り近づいてるときなんかめちゃハイになってたよ。」
と即答であった。
この間も、音楽の授業で自前の演奏をグループで披露する、という宿題があり、その準備で
「僕は音符は読めないけど楽譜は書けるんだ!」と意味のわからんことを豪語し、
試験前の土日をほぼ楽譜アプリの打ち込みに費やしていた、、。
まあいいんだけどさ。将来も、ぜひ夢中になれることに追い立てられる仕事についてください。
 
翻って私の「幸せを感じる瞬間ってなんだろう。
クラシックを小音量で流しながら、家族それぞれ自分のことに没頭してる時とか。
運動を兼ねて子供たちと速歩で散歩しながら、取り留めのない話をしてる時とか。
遊び歩いたり沢山の人に会ったり、昔ワクワクしていたような外交的な事柄はどんどん必要なくなって、たわいもない事に幸せを感じる今日この頃。とはいえ、そればっかりじゃないからこそ幸せを感じるんだと思う。
内向きの幸せともに、外側への興味や行動も失わずに持っていたいものだ。

持っている服を数えてみる

皆さま衣服は全て合わせて何着くらいお持ちでしょうか。

以前ミニマリストさん達のブログを読みあさっていた頃、衣服は何着持っているか?を披露するブログを読んでは
「全部で10着?おおー、、!」などといちいち強烈に心動かされてた時があります。
また、よく読んでいた「主婦の友」会員の井田典子さんの本でも、何着か数えてみる、というのがありました。こちらは確か下着とか小物とかも全部合わせてだったと思います。少なめさんで150着以下、平均150-300着、多めさんはそれ以上、と書かれていたかと記憶しています。
私が自分のを数えてみたら80着ほどでした。それなりに少なかった。
(実家にある若い頃のとか、着物とかはのぞきました。合わせたら100着くらいかな。)
私としては自分ごときに100着も衣装がある事にはうんざりなんですが(笑)、このくらいだとTPOにも別に困らず、着回しもおしゃれもほどほどに可能で、実生活にはちょうど良いです。
最近の衣類の買い物は、インナー類がそれぞれ年に2-3着、春ー夏物は込みで年に2-3着、冬物は数年に2-3着買い換える程度にしています。これも多くはないけど、すごく少ないわけでもないかな。
衣類に関しては、お気に入りが分かるまで沢山試した方が良いとも言いますし、人それぞれだと思いますが。私も紆余曲折を経て今のラインナップになった訳ですし。

断捨離にハマっていた頃、着なくなった古い洋服はかなり処分しました。いまはほぼスタメンだけがクローゼットに収まってるので気分は良いです。後悔してる部分があるとすれば、リサイクル店に持っていっても売り物にならない、と言われたものは持ち帰って、ウエスにでもすれば良かったなあということです。店での処分でも廃品回収には出してくれるようなので預けてしまっていましたが、そんなものは二束三文にしかならないでしょうからどう処分されてるか怪しいものです。途上国への寄付も、需要に合っていないために、なんの価値もなくその国でゴミ山の如くうず高くたまっている動画を見たことがあります。またそういう衣類が存在することで、新しく途上国で作られる製品の価値も下がってしまうと聞いたことがあります。
どんな処分の仕方をされてるのかも分からないのなら、自分で後始末をつけた方が良かったかとは思います。
 
若い頃はそれなりに沢山買いました、、。今のように環境の事なんか誰も気にしてない時代でしたしね、、。
ところが、そう思うのですが、あのバブリーな90年代、日本で年間に流通する衣装は今の半分ていどだったというのだから驚きです。ただし単価は今の2倍程度だったようです。
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https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/seizou/apparel_supply/pdf/report01_03_00.pdf

そしてやはり、国内生産の製品が著しく減っていることに驚きます。
アパレル業界のことはよくわかりませんが、この資料の全体像を眺めると、古き良き生産流通システムが壊れて、より無駄のないシステム(と思われたもの)が台頭するにつれ、より安い製品が大量生産される状況となり、それに伴って国内製品の減少が起こっているようです。ただ一方、日本の高品質な生地の生産はそれなりに高く輸出量も多いようです。
やはりこういうのを見ても、生産者と消費者が置いてけぼりにされている感が拭えません。
今の若い方たちは色んなモラルに縛られて大変だろうと思いますが、我々の頃よりずっと賢明な方たちが多いと思うのでうまく乗り越えてほしいです。
私が若い頃の自分にアドバイスするとしたら、
「ある程度お金を出して買った方が、自分が納得して買ったものになるし、長持ちしていいよ!」
ということです。まあ、むしろ今の私に言いたいかな。吟味する余裕がなくて、適当に安いものを買ってしまうことも多いのでね、、。

お気に入りのくたびれ道具

ささやかすぎることですが、ちょっと嬉しいことがありました。
私はステンレス製のコーヒーフィルターを愛用しています。使い始めて2年くらいになりますか。ちょっとエコっぽくてかっこよかったのと、コーヒーオイルも抽出されて味が深くなると聞いたからです。
エコかどうかは、紙のフィルターは使わない代わり、コーヒーかすを洗うときの排水の問題があるのでなんともいえませんが、、。味の方は確かに数段変わるので気に入っています。
このフィルターが最近急に目詰まりを起こして濾すのにえらい時間がかかってしまうようになりました。
使用前の歯ブラシでゴシゴシしてみたけど全く変わりなし。
こんな時、ちょっとネットで調べるとすぐに解決法が見つかるのが現代の良さですね。
数年前に本格的に仕事復帰したばかりの頃、日常の知識的な不安は殆どネット検索で解決させてたことを思い出します。もちろん不確かな情報ははじきますし、専門家の知識を得られる場が幾つもあるので助かりました。ネットが無ければ仕事の勉強にはものすごく時間がかかって、家庭との両立は難しかったと思います。
話を戻そう。
で、ネット検索しましたら、目詰まりしたフィルターを10分くらい煮沸させるといいんですって!早速やってみたらお湯が真っ茶色になり、ろ過の力は半分くらい戻ってきました。
まだまだ使えます。捨てないで良かったー。

私の履いてるスリッパもかなりボロが来ていますが捨てられません。足の裏に当たる部分がかたい凹凸のある布なので、夏は布が足にべと付かず涼しい。冬は空気を含むので暖かい、という優れものです。
料理のシミなんか付くことも多いので、数ヶ月に一回過炭酸ナトリウム+お湯で漂白します。まさによみがえる、という言葉がぴったりなくらい綺麗になります。
今回は親指の部分に穴が空いてしまいました、、うむ、流行りのダーニングとやらをしてみよう。
むかし子供のお弁当袋を作った時の端切れなど持ち出して、それを当て布にダーニングの形式で縫い合わせてみました。糸の色を変えてさまざまに遊んでみましたらなんだか可愛いです。うれし〜。

パジャマもかなりくたっとしてきたので、意気揚々と三層ガーゼの良いものを買ったのですが、今の着心地から離れられずここ4、5日放置されています。

年齢のせいか、新しくパリッとしたものより、使い込んでくた〜っとしたものに愛着を感じるようになってしまいました。一応家で使うものにとどめていますが、、、うーんちょっと自信ない(苦笑)。
少なくとも外に着ていくものは、年季の入ったものでもちゃんとお手入れしてパリッと着こなしたいとおもっております。

私はミニマリストになりたくて以前はどんどん捨てていましたけど、段々罪悪感が優ってきて、エコのことを考えるようになりました。最近は買い物ミニマリスト、ゴミ捨てミニマリストになりたいなあと思って暮らしています。


ものの大量生産について。「私」はどう動くのか?

先日のブログでやり取りしてくださったきゃすぴえさんに、「確かに大量生産、大量消費のシステムは変えなければいけない。けれど増えすぎた人口の生活を支えるにはどうすれば良いか?」というとても壮大で難しい課題を投げかけてもらいました。

そうなんですよね。普段の生活でも感じますが、大量生産は本来コスト削減のためには非常に有用で、少数作るよりも、1個あたりにかかる生産エネルギーはずっと小さいという素晴らしい利点があります。

高価なエシカル商品に本音ではなかなか共感できないのも、お金のない人を疎外しているイメージが拭えないためもありますが、単純に生産コストをかけているということは、それだけエネルギーを過剰にかけていることだろうと予想できるからです。

本来大量生産は人類を救う手立てのはずなのに、そこを我々人間は何を勘違いしてしまったのか。

生産者、消費者の二者だけでは生じにくい問題、つまり流通、販売の介在が問題としてあるように感じますが、そこは中々私には理解が難しいこと。私のような個人はどう動いたら良いのか。この、自分はどう動くかというのをいつでもまず考えたいと思います。

人類が年間に利用できる資源は、地球が一年かけて自然に回復できる範囲にとどめなければなりません。しかし今は、その1.7倍を毎年消費しており、日本に住む人の暮らしに限れば、約3倍を消費しているのです。 (生活クラブ広報「生活と自治」高橋真樹氏の記事より)

 

繰り返しになるけれど、日本のようなものの溢れた社会にいる私は、やはり大量消費の口車に乗せられず、SDGsにも乗っかりすぎず、身の丈にあった消費にとどめることが先決かと思っています。エシカル商品だからと言って何となく買ってしまう事も危険だと思います。消費を減らすことでしか、過剰な生産を止められないのであれば、そうやって買い手が行動を変えていくしかないと思います。

ただ、そんなに悲壮な決意をしなくても、本当に気に入ったものや必要なものだけをよく吟味して買う。間に合わせや大して必要のないもの、その場しのぎのもの、代替のきくものは極力買わない。ここ数年そう気をつけて生活してきましたが、いつも家の中はすっきりして、お気に入りのものに囲まれて過ごせるので、むしろ楽しく心穏やかに生活できるように感じています。

 

先日紹介した斉藤幸平さんという経済思想家の、私が聞いた講義では、生協組合という私にも馴染みのある組織についても言及されていました。

私が環境問題を直接考えるきっかけになったのはパルシステムの広報でした。日本の自給率が著しく低いこと。日本の一次産業につく人口はどんどん減っており、どんどん高齢化していること。そして日本の一次産業を守ることは、自然を、環境を守ることに他ならないこと。そういったことを食を通して学べたと思います。

講義でも言われた事ですが、生協のシステムの利点の一つは買い手が予約する事で、生産者は安心して生産でき、市場の流動する価格にも左右されず一定の値段で取引できることです。ほかにも、売り手の思惑が介在しない事で、消費者、生産者の希望を直接相手に届け、お互いのシステムを変えていくことかができること、など一次産業を守る上での利点が沢山あるのですよね。

初めの疑問への答えにもなりそうですが、消費者が小さいコミュニティで生産者と直接やり取りする事は「私」の行動として望ましい方法の一つではないかと考えます。

私たち消費者は、これからますます自分の買うものについて意識的になった方が良いという思いを強くしています。

生活をサイズダウンする。一番の環境保護だと思う。

去年の秋、日本エシカル協会の「エシカルコンシェルジュ講座」というのを受けていました。

この記事の中でもさりげなくその内容に触れたりしていたのですが、では半年学んで私は何を総括できたか?と考えると甚だ心許なく、とても言葉にできるような状況にありませんでした。
いつからか、私の中でエシカルって何だろう、サスティナブルって何だろうという疑問が湧いてしまって、なにかやればやるほど偏った方向に行ってしまうような、別の問題を引き起こすような感覚が芽生えてしまったのです。
例えば、ヴィーガン食は環境負荷を減らせるということで注目されていますけれど、では肉食を減らすためにべつな手段を取ることはどれほど正しいのか。植物性にはしたいけれど肉の味は食べたいという欲望のために、化学的な処理をされた代替肉を生産することは新たな環境負荷にならないのか?
オーガニックだとか、フェアトレードとか、耳に心地よい言葉を並べて作られた製品でも、大量生産大量消費されたら同じく新たな環境負荷になるのではないか。
何か根本的な事が忘れられていないか。それをすごく感じていました。
その中で、私が唯一感銘を受けた講座がありました。
斎藤幸平さんという哲学者の講座で、最近は「人新世の「資本論」」という本が話題になっている方のようです。
思想そのものは私のような門外漢にはかなり難しい物だと思うのですが、我々生活者にも響いて来るような文章の一つ一つがあり、下記の記事などはとても分かりやすかったです。

www.jiji.com

特に分かりやすく、私の記憶に残った文章をあげてみます。

脱炭素化しても、石油の代わりに、リチウムやコバルトといったレアアースを膨大に消費する社会に変わるだけ。コカイン中毒からヘロイン中毒になるようなもので、問題は別の形で深刻化していきます。資源や製品の再利用を徹底する「サーキュラーエコノミー(循環型経済)」にも死角がある。リサイクルにも当然エネルギーが必要になります。循環を実現することは必要ですが、経済規模を大きくしていいことの理由にはなりません。だから、「脱成長」に舵(かじ)を切る必要があるのです。電気自動車に変えるだけではなく、シェアリングして台数そのものを減らしていく。そういう根本的な発想の転換をしなければ、人類の生存確率は下がるばかりです。

 

週休3日で労働時間を短くしたり、休みたい時に休めるようにすれば、例えば自炊したり、本を読んだり、ニットを編んだりする時間があるかもしれない。環境にも望ましいし、私たちのメンタルにもいい。そちらの方が「豊かな生活」だと思います。

 ところが、私たちの身の周りのあらゆるものが商品になっています。生きるためには貨幣が必要なので、多くの人はかつてないほど必死に働きまくっている。生産効率は良くなったのに労働時間は減らず、ますます低賃金になっている。一方、大量に生み出される商品を売らなければならず、大量の広告や頻繁なモデルチェンジ、製品の計画的な陳腐化が進みます。そのせいで資源が無駄に浪費され、二酸化炭素の排出が続くのです。

 そうなんですよね。我々は自分の生活を少しずつ小さくしていく必要がある。でもそれは決して貧しい生活ではなくて、自分で自分の生活を生み出す豊かな生き方だと思うんです。そしてそのためには働きすぎちゃいけない。金儲けのために神経をすり減らして無駄な経済活動を生み出してはいけないと思うんです。

 

先日うちの冷蔵庫が壊れまして。15年使いましたし、手放しても良かろうと判断しました。新しいのを買うにあたり、出来るだけ環境負荷をかけないものをと考えました。

中古品をあたる時間は無く、また今まで失敗も多かったので、差し当たり型落ちで、少し小さめで燃費の良いものを探すことに。

近所の小さな電気店に行きましたら去年の型落ちが10万円引きで一つだけ残ってまして、サイズ感もジャストフィット。満足して購入に至りました。

しかし待てよ。

私が子供の頃、冷蔵庫ってこんなに馬鹿でかかったかな? この急速冷凍機能だの、製氷システムだのって必要なのかな?「弱」モードにしてもこんなにキンキンにする必要あるのかな?

とても気に入ってはいます。しかし私も、まさに斎藤さんのいうメーカーの大量広告、頻繁なモデルチェンジのシステムに乗せられてるわけです。恐ろしや。

そもそも型落ちなんて大手家電店では殆ど見かけなくなりましたよね。そこからしておかしい気がします。

せめてもの罪滅ぼしに、今ここで書いたような事をメーカーや販売店に長々とした文章で送りつけることにしました(苦笑)。今はお客様アンケートみたいなところへいくらでもアクセスできるのは良いことです。逆にそういうのがない店や会社は信用しないことにしています。

この自分の意見を直接メーカーへ問いただす、という方法はエシカル協会で習ったことです。皆様もぜひ!!


生活を小さくする方法はさまざま考えていますが、やはり基本的な、電気を節約する、水を多く使わない、車を出来るだけ使わない。こういう地道な行動が大事だと思います。ぼんやりしてると使い過ぎてしまう事なので、こうやって文章にして自分を戒めたいと思います。


家庭菜園(もどき)とDIY(もどき)の庭

そうそう、そういえば家庭菜園もどきをしていたのでした。

名付けて「全てゴミからできる野菜つくり」です。

簡単コンポスト、すなわち庭の一角に深く穴を掘っては野菜クズを入れ、掘っては入れ、を秋から春に繰り返していました。

春になったらその野菜クズからどんどん芽が出てきて、まあ可愛らしいこと。ここまでは以前の記事にも書いています。

ついそのままにしていたら、カボチャのツルは次第にお化けのようになり、しかし花は咲けど実はならず、という呆れた事態になりました。

カボチャの大きな葉のせいでピーマンは日光が当たらなくて、人知れず萎れていましたし。

じゃがいもはいける!と思ったら、時期が早すぎて数cmにも満たない小芋の収穫でした。

それを横目に、ミニトマトだけは健気に実をつけてくれたのです。嬉しい。でもミニトマトなんて種も一緒に食べると思うんだけど、どこから土の中に入り込んだのやら。

今年の夏はそんな風に悲喜こもごもでしたので、来年はトマトの苗のみ残して大きく育てようと思います!!

コンポストは家のゴミがすごく減って臭いも無くなるし、肥料になるし、土の中の野菜が分解されていくのも面白くて、気に入っているエコ活動の一つです。


このコンポスト兼菜園を囲うようにして、春には庭をDIYしました。敷石の隙間からグランドカバーが覗く感じにしたら、私にしてはかなりの上出来になりました。地ならしなどは何にもしていないので、プロが見たら笑っちゃう代物なんでしょうけど。

時間のない中でも頑張って満足できる物ができると嬉しいですね。